天才は常人には理解されない?それはどうかな?

 ペン回しができない人、できる人。逆上がりができる人できない人。とてつもなく運動神経が鈍い人、音痴な人

またはコミュニケーションが取れない人。

これらは才能とか生まれ持っての資質とかそういうふうに判断してしまいがちなのが人間ですが、まず運動神経ですがこれは必ず良くなります。

では何を運動神経と言うのでしょうか。ここでは単純に運動することが上達するのが早い人としましょう。

たしかに生まれつきの才能がかかわる部分もあるでしょう。ですが運動というのは自分自身の体がどう動いていてまたどう動かすかが一番最適なのかを知ることから始まると思います。中学の時わたしはテニス部にはいりました。ですが半年もたたないでやめました。というのは確かに今のうちに運動しておけば体力はつくだろうし精神状態もかなりよくなり、根性などもつくだろうと思いました。ですが私はいつも考えすぎて動かないたちだったのでしなくなりました。それはテニス部の部長があまりに低いスポーツ理論しか持っておらず。運動部特有の精神論を展開するような感じだったからです。それにテニスの性質上右利きなら右に筋肉がよってしまい不整合な体になってしまうんじゃないかと思ったからです。それにスポーツという運動そのものに故障や事故が多いことに少し抵抗がありました。ま、四の五の言わずにやりゃあよかったんですが、私は中学卒業後高校入学までの間、自身で武道の理論を勉強していました。道場にもいったりして棒術なるものをするようになりました。そこで古武術というものに出会うのですが、当時、スラムダンクで有名な井上雄介さんの「バガボンド」が連載されてそれにいたく感銘を受けました。武蔵の極限での体の運用がもっともすぐれた運動理論ではないかとおもったのです。

 

そこで高岡英夫、甲野善紀などの身体論を知り実践しました。そして武術の世界にはまり。自身が以前から背中の中央部にある背骨のゆがみを治すために整体の技術も学びました。そして人というのは時間はかかれど運動において不可能な事はさらに高度な身体技能以外にはなく、運動神経というものは生活リズムがちゃんとしていていつも体の力がぬけリラックスした状態で一種のハイな精神状態に自分をすることによる超感覚的なものだとわかりました。彼らはたまたまそういう生活をしてきたから運動神経がよいのであって適切な方法をとれば運動神経は経験することができるのだと分かったのです。それからはひたすら修練の日々なわけですが、やったことというのはとにかく歩くこと、歩くことを細かく細分化して自分でそのすべての動作をコントロールできるようになる。つまりどれくらい歩こうとも疲労しない体。疲れ知らずな体を目指しました。どのくらい歩いたか。自分でもわからないのですがあるころから知能までもが上がっていくのがわかりました。そしてその思考状態で考えたのが自身をどこまで高められるのか、知能や音痴も結局はある問題を克服することによってできるものだということ。そしてそれをしるのに必要な情報は図書館と自分の体に聞けばいいというような感覚に至ったのです。

 

音痴な人がまず、自分をダメだとしてしまうのが学校で歌を歌うというストレスです。ストレスというのは精神的活動の敵です。ストレスが発生すると体は委縮しリラックスできなくなりそしていつも体に力が入った状態になります、

それは体にとってものすごい負担になります。私が音痴いわゆる歌が歌えない状態から立ち直ったのは昔から口笛でゲーム音楽を口ずさむようになり気心の知れた親友とカラオケにいくようになったころでした。初めはその親友も音痴で歌うのが下手でした。だけども私との仲でそんなことを恥ずかしがる必要もなくカラオケ屋という密」室で自分たちがよく聞いていた、アニメソングなんかを歌いあったりしたのです。そうしているとだんだんと歌は上手くなっていきました。結局リラックスした体で自分の声が聞こえる状態で好きな曲を歌うという単純なことが音痴を脱するヒントになったのです。今では洋楽も邦楽も歌えます。

それでたいていの人はまだ発達段階か準備段階でそれに到達していないからできないのだという風に考え始めました。読書もスポーツも運動神経も自分が経験していくことによってだんだん理解していき、ある時それがあふれてレベルに達するとそういう考え方はとても合理的だとわかったのです。

そして物事を熟練させるためにはとにかく楽しむことだとわかりました。コミュニケーション能力がある人は自分が楽しいから、それか自分がそのコミュニティに溶け込めて社会的な地位を獲得できているからだと思うようになりました。だれでも最初はできないのです。それをやれるようにするには最初の一歩をあまり意識することなく初めてしまうことなのです。

よく一つのことがうまくいくとすべてのことがうまく生き始めるというのはたんに運勢的な話ではなくて一つのことがうまくいくとその方法論で万事を解決する糸口がつかめだしすべてのことにうまくなるコツのようなものをつかめるからなのです。

そして教育というのはつまりは人生をいかに楽しむかを教えるためのもので、楽しい人生では仕事は苦ではないし、無理をして会社にいくということをなぜしなければいけないのか、なぜ、この世には義務があってそれを果たさなければならないかという問題にも正当に答えられる力が身につくのです。

わたしが考える力というものに目をつけたのは中学の道徳の教科書で得た知識です。つまり、自分の頭で自分で考えられるようになって初めて一人前、それまでは準備期間で、青年という少年でも大人でない期間にあるという話です。ですがわたしはそれが面白いと思いました。

ソクラテスという人の弁明をネットで読んだとき感銘を受けました。彼はそのころ、万物を定義されつくしもはやこの世には一遍の不可解もないとしてその常識のようなものを学ぶのが若者のつとめだと話してまわる弁論家に対して、自分はなんにも分からないだから教えてほしいと、提言してそれで彼らが振るう学説をいちいち論議してついには彼らはなにもしらず万物は定義されてはいない。という真実を表すように彼らに提示し彼らの論理を論破しつづけたのです。

そして「私は知らないということを知っている」という名言を残しなんの著作も残さず時の王の命令で殺されてしまいます。ですが彼を支持した何十人という弟子が対話篇などの彼の言った言葉を後世に残したのです。

その中に「ソクラテスの弁明」というその時の裁判の話が載っていてそれをネットで読んだわけです。

そして哲学に興味を抱きます。ですがわたしは難しい哲学の本は嫌いでした。高校で教わる倫理の授業がまたわたしをいろんなところへ連れてってくれたのです。

 

そうです、本来、学び、運動し、考える、ことは楽しいはずなのに今の学校は羞恥心(他人の前で自分が侵すことが恥ずかしいと感じること)をあからさまに行います。生徒もその心につけこんで自分より弱い人間を苛めようとします。

現代教育はまさに自分の羞恥心との闘いのようになってしまっています。ですがそれでよいのでしょうか、ストレスを克服することで初めて人間は成長する。それもまた事実ですが、その精神論だとこの世はまさに勇気の連続でしかありません。いったんふるった勇気をさらにこえる勇気で克服しなければいけないそんな世界はもはや絶望的ですらあります。どこまでが少年少女でどこまでが青年なのか私は少年少女たちにはまだ言いつけてちゃんとできるようにする方法は悪ではないと思います。どんなに理路整然と物事を諭してもある時点にくるまでは子供たちは理屈抜きでめんどくさいとしか感じません。しかし彼らのうちにやっておかなければならないことはいっぱいあります。

 

その中に家事というものがあります。現代教育ではこれに触れません。ですが考えてみれば家事というものが少しでもわかっていれば汚いものをこぼしてしまったときはこぼしてしまった人が片づけなければならない。

だれしもがおねしょやうんちを漏らし、それの処理をお母さんやお父さんは嫌な顔せずしてくれる。ということにも気づきます。だから小学校のトイレに入ることが恥ずかしいことではないとみんなわかるんじゃないだろうかとも思います。ですが子供の心はえてしてそれがどんなに恥ずかしいことでもいたずらにやってしまうというところがあります。ですがそれが人として最も恥ずかしいことだとわかるのはその子供が青年か大人になったころです。

 

ですから教育というのは青年か大人になったころどのように子供たちが成長しているかで決まるんだと思います。

またいかにして知識を獲得するのか?あるところから知識というものが大きな課題になるでしょう。

ですがそれに一番良い方法は読書をすることです。しかし読解力という意味不明な言葉を聞きます。小学校低学年の子供に読解力なんて言葉はつかわなくていいのです。まだあいうえおや漢字に苦戦して先生に教わる字をお手本に習字を行い読み聞かせをしていれば適切な日本語はかならずつきます。

文章が稚拙なのはまだ論理的思考段階に入ってないからかもしれません。直観的思考段階と二つの段階があるのですが、直感的思考段階の子供はまだ、物事を直感的にしかとらえていなく同じ容量のコップに入った水でもコップのかたちで水の量が違うと思ってしまうのです。

それは子供の発達段階の話なのですから無理に進学塾に入れる必要はなく、待つこと、子供の成長を待つことが必要です。

そして子供の成長で一番必要なことは両親がちゃんと子供の面倒をみることです。家にいないで子供をほったらかしにしていては子供に孤独感を与えるだけです。家庭で一番大切なことは子供を理解することだと思います。

私は正直に言うと子供というのが怖くて仕方がありません。なぜならどんなリアクションをするかわからないからです。赤ん坊になるとさらに怖いです。抱いた手が緩んで落ちて頭を打ったらどうしようと考えてしまうのです。

でもうちの母は、子供が好きで子供がいると子供と同じになって「どうしたんでちゅかー?眠たいのかなー?なんて感じで子供をあやします。ですがこのなんか子供みたいな子供をあやす言葉は子供にとってはいごこちがよくて母がだくと子供がなきやんだりします。母親というものは子供と真剣に付き合っていくと子供の心がわかるようになるようです。私は教育というのは子供の心がわかって初めて成り立つと思います。だから私はまだ教育者にはなれないですね。なっても偉い校長先生のようになってしまうのがオチで生徒とろくに話もできなくなりそうです。

中学生相手なんてちょろいとか生徒をバカにしてると足元救われます。

ちょうど中学生なんてスポンジみたいにいろんなことを吸収する時期ですからその時の成長はものすごいものです、三年間で教育の仕方ではまるで違うと思います。

 

 

さて私がわからないのが試験という奴です。もっと分からないのが受験という奴です。なぜでしょうか中学、高校をただたんに高等な教育を受けるために一枚の紙きれでその人物を試せると思っているのでしょうか?または人を試せるほど自分は高等なのでしょうか?そして受験のためだけの勉強に何の意味があるのでしょうか?

ここだけは本当に愚かな行いとしか思えません。学校を運営していくなかで必ず問題は起きます。ですが教育の現場で排除の理論を使うのは絶対にしてはいけないことです。問題があるからといって排除をするのは問題を問題のまま解決せずに放置しておくのと一緒です。そういうシステムで国が運営されると国というものが徐々に崩壊していくというのをどこかで聞いたことがあります。

つまり受験で質の悪い生徒をふるいにかけてるとしか思えないのです。どうして生徒を点数で表してその合否で彼らの進路を決めるのか行きたい教育機関には行けるようにすればいい。ただしそこで泣くことになるかは生徒次第。私は体罰がなくなったというのもおかしな話だと思います。体罰がない世界でどうやって子供をしかるんです?口だけの先生なんて誰が相手にするんです?そんな先生にできることはただものすごい怖い形相で怒鳴りつけるくらいでしょう。気の強い生徒は反抗するでしょう。どんな理由であってもダメなものはダメと教えなければこの世に冒してよい悪があるといっているようなものです。それどころか、最近は道徳の授業すら軽んじられてる。

中学生が殺人を犯して中学生に善悪の区別がつかない?なんてそんな理屈は通用しない?道徳というものは善悪というものは頭が擦り切れるほど考えてやっと答えがでるようなものです。イエスキリストでもブッダでもその問題に一生をかけたんです。その答えを経験則だけで知った気になるなんておこがましいにもほどがある!

なら、今現在の教育機関が目指す最良の人間とはなんですか?それを生徒に説明して納得させられますか?

考えても考えてもわからないことだらけではないですか?いくら討論してもだめではないのですか?だから今教育について叫ばれてるのでは?人の言うことをはいはいと聞いてその通りにやってきただけの人間にこの国の将来はまかせられない?違いますか?進路希望なんて紙切れ一つで人の夢の重さが図れますか?進路なんて自分の将来なんて善悪なんて考えたこともない生徒がやまほどいるんじゃないですか?

ここまで私が学びそしてこの国のために考えていることを書きました。

この国だけではない、いま資本主義が社会体制の国の多いこの中で多様性(人とは違うこと、個々が個々違うということ、それら様々な違いが世にあることの世の中の摂理)がどのようにはぐくまれるべきか。それが人間が本来もっている問題そのものと向き合うほかにないのだと思います。

なぜ政治が乱れるのか?リーダーや王様が時が経つにつれてその役割を勘違いするか忘れてしまうことで起こる。そしてえてしてリーダーや王様というものはだれにも理解されない孤独なものだということ。だから民主主義で代表をたてようとするとはじめのうちは皆から支持されて自分には国を治めるだけの力があると思えるしかしいったんその代表になってしまうと周囲は四面楚歌。自分が出した答えに反論するものが必ず現れ、理性と知性と労力のすべてを試される。

いかな王朝もどんな国も長くつづかないのはそういう本質があるからだ。

国というものが維持されるのはなんのためかそれは国民のためと原始時代から決まっている。

だがそれから一万年今その原始の問題に今も挑戦しつづけなければいけないのが人間なのではないだろうか?つまり古いということは問題に一番近いということである。ではこの国で一番古いものはなんだろうか、それは人間である。この国は日本という国は開国以来この国の土となっていった人々の上にたっているのだ。

卑弥呼の時代から地層を見ればわかる人骨がでてくるし、いろんな出土品がでる。歴史番組がなぜ、この国の将来を憂えているような色調になるのか、それは歴史とは人間の積み重なった生きた記録だからだ。

ではなぜ日本のご年配の方を弱者のように扱い、その人たちの意見を聞かないのか。彼らはいいます。戦争はしてはいけない。それはわたしたちが体験したからわかるんだとも。そしてそれがどれほど筆舌に尽くしがたい感情であるかも話せばわかります。

世界規模の戦争が起これば地獄絵図です。死体の山から自分のお母さんや妹を探す羽目になる。ナチスドイツがした悲劇、でもその同盟国だったのはほかならぬ日本なんですよ。そして日本人だって戦争をしたんです。

子供に善悪を教えなければいけないのはそこがあるからでしょう?今、人生には生きる価値のある大切なものがあると世界が共有しないで何の平和がありますか?

人が生きる価値を失ったとき、世は、乱れます。第一次大戦大恐慌や農村の世界的な不作が原因だったともいえます。いままた環太平洋のプレートが活発化してあちこちで火山が噴火しています。火山の噴火がもたらすのはあついチリの雲です。それは太陽が顔を見せない全くの闇を生み出します。それが結果として農村の不作につながる。古代の人たちが天体の動きを読んで吉兆を判断したのもそういうことだと思います。単純に世界がチリに埋もれて闇がくるということがどういうことかを知っていたということです。今なにをしなければならないのか?これこそがこの世界に住んでいる人間すべてが考えなければならない義務でしょう。