最近ゲームが面白くない件

ゲームとはなんだろうか、アート(芸術)だろうか、それともエンターテイメントか、わたしはゲームの本質にあるのはおもちゃであると思う。

ファミコン スーファミ あの時のソフトたちはゲームという名のおもちゃだった。ボンマーマンの二次元のフィールドには無限のひろがりがあった。

なぜ、あれほどハードが魑魅魍魎のようにうきあがっていたなかファミコン スーファミはその地位を独占したのか、それはあくまでおもちゃであって任天堂というおもちゃ会社がおもちゃの本質を分かっていたからじゃないか?

 

おもちゃにおいて重要なことは人を楽しませること。それは花札の駆け引きだったりチェスの頭脳戦だったりバトルドームの熱であったり。

 

ゲームはゲームというおもちゃだ。だからDSは売れた。そこにおもちゃの性質があるからだ。

シーマンもそうだ。一世代前、プレイヤーはサイコロをふり魔王にいどんだ。ゲームのコントローラを思わせる、ボクシングの体感型ラジオコントロールボクシングマシン

いっせいを風靡したおもちゃたちは、ゲームに新たなアイディアを与えた。

ボクシングマシン一つとってもカスタムロボというゲームを生み出した。

サイコロをふるTTRRPGに。

そうなのだ、おもちゃの開発はゲームと同時進行するべきだったのだ。

いまや全てがデジタルだ。 わたしは一つの考え方をいいたい。

デジタルが見せてくれるのはどこまでいっても虚構である。

アナログがもつ自分の体に手ごたえのあるそういう遊び。今やどうだろうおもちゃへいってもおもちゃには目もくれずゲームにばかり目が行く、あの遊戯王だって初期のころはおもちゃをかぎりなく愛する少年がカードゲームに目覚めていく。

ゲームはどこかでアナログの性質をもたなければならない。

ゲームがその人を独占しすぎる。だから現実に立ち戻る筋道が必要なのだ。

コンピュータのAIが相手のゲームに君はどこまで楽しめるかな。

ゲームが有意義な時間を取り戻したとき、ゲーム産業はこれまでにない発展をするだろう。

そう、仮想世界でもいい、ソフトを創るという発想は、単一化するという危険性をはらむ。

不思議なことにいままでヒットしたゲームはなにかしら現実のスリルや興奮があった。

ゲームを作るのでなくわたしたちは、人に遊びを提供しているのだと気づいて欲しい。

私は小説書きだが、いつでも気にすることがある、それは匂いである。

それを読んで、それが噛み砕かれて消化されてその人の栄養になるような書き方がしたいのだ。匂い、小説における匂いは味でもあるし栄養でもある。そしてそれらは現実に自分が生きてる中から発掘するものが多いということである。

まあ、そんな小難しいことはいいのだ。

ゲームを作る人は遊びを提供する。それはその発想はおもちゃでいい。

技巧的に高いものを作る必要はあまりない。ユーザーは面白さを求めているのだ。

どうか心に響くすばらしいおもちゃをこれからも作り続けていって欲しいものだ。

しかし、個人的なオーダーをするならオンラインである必要はなく、むしろ一人でたんたんとそれにのめり込めるようなゲームが作られて欲しいものだ。それも攻略がやたら難しくて途中で投げ出したくなるのではなくて、ちょうど良く楽しくちょうどいい難易度のものがよい。

ストーリーはやはりゲームの目玉だからテンポよく劇的に変化にとんだプレイヤーをいい意味で裏切るゲームがいい。

まあ、私の個人的欲望だが、あとゲームとは別にストーリーがちゃんとある小説などのゲーム化は、アニメを見ながらゲームをするのでアニメに劣るようなゲームではお話にならない。

こんなふうにいうと実際につくったりもしないでなにを勝手なことをというだろうがゲームを作る人たちはゲームをする人たちがいて成り立ってる、ならゲームをして時間を無駄にしていてもそれは責められることじゃない。

まあ、こんな具合でぐだぐだなブログだがまあ、いいたいことがいえて誰の迷惑にもさほどならないならそれにこしたことはないなあと思う。