続「最近ゲームが面白くない件」

 みなさんのブログを見ていると私が思っていた以上に世の中には面白い考えを持った人がいるようでそんなひとたちには思わず笑みをこぼしてしまいます。

このまま、こんなふうに自分の考えを言えるウェブ環境が整うということは、そのまま、昔の日本の識字率の多さと同じように今度はそれより高度な読めるという水準から表すという水準へ日本の文化レベルが高まっていくことになるでしょう。

簡単に言うと日本人の誰もが自分の心に内在する気持ちを公的な立場で表現できるようになるということ。

それによって何が起こるか人というものは一人一人違う個性を持っている。

それを表現して表すということはみんなとは違う自分を認められるということで逆に言えば自分はもとからオリジナルであるということを知ることにつながる。ならば創作という段階に入ったときに自分にはないオリジナルを求めるのではなく、自己の中にあるオリジナルを伸ばせばよいという少し楽観的にものづくりというものを見つめなおせるのではないかと私は思う。

少し安易な考えかもしれないが、いきなりトップの創作者たちと四つに組んでしまうより、もう少し楽な観点で自由にものづくりをするということも大事なのだ。

少し過去の事例に触れるが誰もが認めるアニメーションの巨匠

宮崎駿の息子の吾朗が出したゲド戦記は大不評に終わったが私としてはあの病的なまでにどうしようもない作品がある意味非常に生々しく現代の諸問題を引っかいて引き釣り出したための悪評とみないでもない。

そういう吾朗氏に父親としての宮崎駿氏の接し方はすこしいきすぎな感もある。

この構図だって最近の親と子の関係を考えるにとても深い示唆を与えている気がするし、やはり宮崎吾郎というアニメーション作家の存在はやはり宮崎駿の作品にも影響を与えてしまっていると思う。

青年が描く作品というのはしばし自分の内面のどろどろした葛藤をそのままぶつけるようにグロテスクな作品を生むこともある。

だが大人たちというのは少なからずなにがあの若い苦悩を忘れ、すがすがしさを求め、明るさにすがりたくなる。

だがゲド戦記が面白かったかといえばNOだ、だがあれを見たとき、反感という感情の動き方で自分が妙に思索的になったのは覚えている。

その代わり、コクリコ坂からは確かに洗練されたものを感じたが、あまり記憶に残らなかったのを覚えている。登場人物の見ているものややりとりが細かすぎるといえばいいのか。宮崎駿が文だったら百万語尽くして説明するものをたったの一シーンで表現していくようなダイナミックさがアニメーションには必要なのかもしれない。

しかし吾郎氏にはもう少しがんばってほしい。

ここまで好き勝手がやれたのはとんでもない貴重な経験であるし、宮崎駿という父がいなければ世にでることさえできなかっただろう。

彼に必要なのは、研鑽だ。物語を作る力と運はある。あとは、世に出ずに地道に自分だけの足で道を作り、そしてまったくのオリジナルを父の威光を使わずに成し遂げればいい。なにも天才だけが世に名を残すわけではない。あのレオナルド・ダ・ヴィンチだって歴史の表にこそでなかったが彼の足跡は後生の人々に衝撃を与えている。

時間というものは努力というものとあわせるどんな問題もゆっくり消化していってしまうものだ。時間なのだ

そして今回の「風立ちぬ」はたしかに最後までちゃんと楽しめたと思う。なんだか夢だなと思った。眠るときに見る夢だ。主人公の心の中には風を切って走る銀翼の鮮烈な夢が駆け巡っているんだなと思った。それがかれの原風景でそれを思い起こした瞬間思考は草原を越えて、どんどん走り抜けてそして重力を断ち切り、一気にもうどこまでも自由に駆け上っていく。

もののけ姫」以来宮崎駿の作るアニメはなんだかどこかが抜けている気がしていた。もしかしたら今作も二度目に見たらそんな感じがあるかもしれない。

彼の作品のいいところは何度見ても磨耗しないところだ。

でもだがいやこれはわたしが大人になってしまったからなのかもしれない。

いまだに覚えているのは、私が病気で苦しんでいるとき小児科医のテレビには宮崎作品のビデオが全シリーズおいてあって子供たちはあきもせずに、えんえんと待たされる待ち時間を見終わっては巻き戻してまた見るのだ。

だけど大人になってしまったわたしはたとえばもののけ姫はやはりもっと上映時間を長くしてでもいいから一大大作としてもっとドラマを盛り込むべきだと思ったし。

千と千尋の神隠しは逆にもっと怖くてもよかった。神様たちが優しすぎて逆にかわいそうだった。カオナシなんかじゃなくてもっと古くて忘れられた神々が暴れだしても良かった。極端な話、この話にもののけ姫のモロだったかあの猛り狂った激しい感情をもつ狼の神がいてよいのだ。あの千尋の子供っぽいけなげさなど到底、追いつかないあの狼の啖呵を千尋は受け止めるくらいじゃなきゃだめだ。そして子供は、結構、どこまでも強くなる力を秘めているものだ。

ハウルの動く城も最後のご都合主義はあのものものしい戦火の記憶からすると少しやっぱりと思ってしまう。

崖の上のポニョはあれでいいとは思う。だけどこの頃から宮崎駿の描くタッチに下手になった感がでた。というのはもののけ姫を書いたとき、ある種の描き方を固定しはじめた気がするのだ。

今回の風立ちぬではそれがもう定番になってしまって、あのにゅるにゅるした線はちょっといただけないと思った。

しまった。ゲームについて書くつもりが宮崎作品批評になってしまった。

まあ、わたしのネットの隅っこでやってるブログなど見る人がいないだろうからいいたい放題いってるだけである。

こうやって人の作品を客観的にみることが自分の役に立つなんて思わない。

しかしとりあえずひとまず少し頭をひねり、こうやってわだかまりを吐き出す、それが自己表現の練習になんのかなと思う。