宮崎駿の引退について
9月6日、あの宮崎駿が、引退を発表した。ぼくは、世情に疎いので、そのことを三日もたってから知った。
衝撃だった。でもあの「風立ちぬ」で確かに、一つの夢が見えたと思った。
人生五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。
あの名匠黒澤明も最後の作品の題を「夢」とした。
夢中で人生を駆け抜ければ、少年のあの全てが一瞬だった、あの
感覚のまま、人生を終えるだろう。
だから「風立ちぬ」、風が立つ。堀越二郎はまさに風だったのだ。
己が風であるなら、風に乗る双翼をだれよりも無心に求め続けるだろう。
それを最後に飾るということは、まさに風の如く、宮崎駿はその命の炎を燃やし尽くしたということなのだ。
「風立ちぬ」を一言で言うなら「夢」だ。
寝るときに見る夢である。
だが夢は、自分の心や、一番純粋な思いを反映する。
それで夢であっていいと思う。
人って何で夢を見るのだろう。
思えばこれほど不思議なことはない。
死後の世界よりも身近でそれでいて、一番不思議を秘めているものだ。
私は夢をどこか懐かしく思う。もしかしたら生命の根源のかなたからこの世界へ来る前は夢の中にいたのかもしれない。
だが、良い夢というのは懐かしくもあるのに新しくもある。
まるで「新世界交響楽」
「風立ちぬ」はそういうところで宮崎駿の引退の幕引きに華やかなカーテンコールになったと思う。
だから、止めないで欲しいという気持ちより、不思議と納得してしまった。
この世は生きるに値するものである。
この一言のメッセージを伝えるのは、容易ではない。
なぜなら人は、それを知るまでは、生きているというのに眠っているに等しいのだから。眠っている人にどんなに呼びかけてもその人は自分は人生は、こうでしかないというような夢の中にいるようなものだと思い込んでるのだから。まあ、こういってしまうとどんなに生きることに目を覚ました人もまだ眠っているだけかもしれないと思ってしまうかもしれないが、世の中というのはどこまでも果てしないのだからそれでいいと思う。
さて、私は、宮崎駿をオーディーンのようだと彼の顔をテレビで見ると、思ってしまう。あれだけ味のあるおごそかで厳しい顔はぼくは他に知らない。
このまえ、テレビの特番で、宮崎駿が自分の名前の駿というのはこう書くのだと見せた文字を見て驚いた。あれは、護符などに書く昔の易者が書いてみせるような文字だ。
彼の頭は絵も動きも文字も音も声も言葉も、ありとあらゆるいろんな面白いそれでいて本当に見聞広くそれらを全て統合して一つの鮮烈なイメージを作り出せるのだ。
ありがとうと言いたい。
どうもありがとう。
そしてさようなら。
願わくば、宮崎駿のアニメが世界中の子供たちに、親しまれ続けてほしい。
言いたいことがうまく言葉になってないかもしれませんが、この前の記事で、図らずとも彼の批評をやった手前、なにか一筆したためなければと思い書いた所存です。
批評というのは、ぼくは、何を偉そうに言うのだという意識もあるのですか、ぼくが他の作品に対してなにかを言うのは、僕自身のモノの見方を客観視するためのものです。
つまり作者に対して物申すというより、自分のためなのです。
で、どうしてブログでそんなことをするのかというと、そこはやっぱり自分の考えをあくまで一つの意見として世の中に出してみたい。そのほうが面白いと思っただけです。
一つのものの終わりがあるなら、また始まりもある。
彼もまたなにかが新しく始まるのでしょう。
それでは。
彼の新しい旅の出発を祝って。