最近、ゲームが面白くない件 VITAを手に入れたぜ編

 

 

寒くて部屋にこもるようになり、据え置きゲームのところまで足が伸びない、でも持っている携帯ゲームはPSPと3DSとなぜかゲームボーイ

 

面白いと思っている「ドラゴンクエストヒーローズ 闇竜と世界樹の樹」ステージ終盤で冬眠期に入ってしまった。

 

我が家の据え置きゲーム機は冬の間は冬眠するのだ。

 

なのでプレステ2,3関連のゲームができなくなってしまったのが痛い。

 

ちまたではなんだかソーシャルゲームやオンラインゲームが人気のようだが、あっちは華やかでいいなと自分のPSPと3DSを撫でながら、草葉の陰から見ているような気持ちだ。ソーシャルゲームだろうがオンラインゲームだろうがなんでもいいとにかく面白いアイディアのゲームをいっぱいだしてくれ。

 

すたれつつあるアーケードゲームが数々の名作を残してそしていまだにその牙を研いでいるというこのご時世だ。

 

 

 

 

本気でやれば、ソードアートオンラインのようなゲームも夢じゃないぞ?

 

ところで私はついに念願のVITAを手に入れました。あの瞬間、レベルが一気に10くらい上がったファンファーレが聞こえたのは気のせいか。クリスマスセールのこの買い時にVITAはこれ以上ないくらい最高のタイミングだ。

 

だが、探してみると意外にない。いいゲーム。ああもう、ブック○○のやってるのは価格破壊じゃなくて価格統制だ。面白そうな作品は概してみな高い。いいんだよ?ゲームがそれだけ売れているってことだから。

 

 

だがVITAにもやっと希望の光が差してきたようだ。「ドラゴンクエストヒーローズ Ⅱ 双子の王と予言の終わり」がVITAでもでるということだ!

 

ファンタシースターノヴァ」は面白いんだが、回復なんとかならんのかな。いつまでも回復薬に頼ってたくない。

オンラインじゃないでやりたいんだから、ヒューマンのハンターにもそれ相応の回復魔法を持たせてほしい。サブクエストもちまちましててかったるい。それからブレイバーはどうしたんだ、バウンサーの影も形も見えないぞ?

で結局ギガンテス倒したけりゃ、バスターやれってか。なんのためのジョブシステムだ。システムを仕様で破壊するなよ。

 

味方キャラは強くて心強いが一撃死が痛すぎる。だが結局だれだってアタッカーやりたいんだから、神聖騎士みたいなものが欲しいわけですよ。一人で探索する私には回復薬がきれたときの絶命感がやりきれない。スケープドールは最後の命綱なんだからそんなに使いたくないんだよ!

 

まあ、ストーリーは面白くてそれで町ができていく感じはいいんですがね。だけどどうしてグランの証みたいなのを主人公(自分)じゃなくてなに、ヒロインがとってんだよー!まさかのスルー!主人公は俺なんだ、これはあなたの物語ではないんだよ!

まあ、それでもなかなかの出来、ギガンテス戦は冷静にレベル上げて立ち回り覚えれば大丈夫ですね。

 

 

でまあ、いろいろ見てきたなかでラグナロクオデッセイソウルサクリファイスといった多人数プレイのもの、これ一人でも楽しめるのかなー、なんか四人くらいでかかってやっと倒せるんじゃねえかと思う。

 

あとはソードアートオンラインのゲームに期待だなー。

 

しかしこれは私的な話だけどもうスペックを競うとか画質を競うとかそういうゲームの方向はもうちがってきてるんじゃないか、もう新たな方向性を持つべきだ。これ以上スペックや画質を上げても資金ばかりかかってどうしようもないと思う。

これまでは画質の良さはとんでもない武器だったがもうこれ以上はくどいよ、と思う。

それよりもゲームソフトをいかに効率よく作り出せるかが今後の課題だと思う。ソフト数が多いこと。

 

それから一本のソフトに何本も古いソフトを入れてオムニバス的な展開。これだけのゲームたちがありながらそのライブラリをつかえないのはいたい。ネットを利用した新しいゲーム展開もいいと思うがそれじゃ、ユーザーがついてこない。いままで王道を突っ走て来たゲーム業界、一度冷却期間が必要だろうと思う。

 

ゲームが単純に好きな人がそれだけでゲームクリエイターにはなれない、でもなにかを純粋に好きでいられる人ってすごいんだ、そういう人たちが宝箱のカギをもってる。廃人ゲーマーを差別しせず見るべきだ。

絵がかけて、ものすごいインテリで、本をいっぱい読んでて、そんな人だって必要かもしれないけど

そういう人だって廃人ゲーマーな人と変わんないんだといいたい。人を見てくれだけで判断しないほうがいい。

クリエイターさんに必要なのはただ好きでいられること。楽しんでいること。ここだけなんだ、世の中いろんな人がいるけど変わんないよ。そこんとこは、インテリさんだろうとニートさんだろうと一緒だよということ。

 

「ゲームが面白くない件」 世界は変わっていくんだな編

 

 

 

 

 

 思うにもはや現環境でやれることはやりつくした。あとはどこまで極められるか。そして昔の子供たちがもはや大人になり新たな世代には新たなサーガ(物語)が必要なのだ。

 

子供時代、ゲーム機を囲んで遊んだあの黄金の時代を今の世代にも味合わせてほしい。

 

これから時代はどうなるのか?

 

 ゲームソフトが映画のようになってしまってどれも人真似ばかりアイディアが全部三流で金儲けのことばかり。

 

 私たち、大人になったユーザーはもう若干冷めた目で見ている。子供のように安っぽいイノベーションに乗っかるような気持ちにはもうなれない。

 

 自分たちに子供ができてもよい時代で、その子供が妖怪ウォッチなんかで遊んでいる。別にいいんだよ、友達と楽しくやれれば、でもそこに子供時代の黄金のきらめきを照る何かがあるかい?入道雲を電信柱の街から見た

 

夏の空にそこに物語があるかな?

 

 

 

 

 

 

僕の前の世代はアニメの全盛期の世代で僕の世代はゲームの全盛期の時代だった。君たちの世代にはもっと新しい何かがあるんだよね?ゲームが面白いという以前にこれまでにつづられた物語の数を知るべきなんだ。

 

 君はアニメのような淡泊なものも映画のような薄弱なものもゲームのような怠惰なものも本のように濃密なものもかたっぱしから頭を突っ込んでみてみるといいそして僕らは君の世代にあえていろんな情報で馬鹿になった自分を見せている。しかし僕たちも前の世代がやってきたことを知っている。彼らはよくも悪くも濃密で独断的だ。

 

 それゆえに人に何かを押し付けたがる。自分の犯した失敗を犯してほしくなくて。でも結局はそれが犯してほしくない

 

 失敗を犯させることになると気づかなかった。誰もがそうやって時代時代を生きてきた。

 

 このつながりは人間が滅ばない限り続いていく。君は知るだろう、君に偉そうな顔していた親たちは、本当はただの人だということ、そして

 

 ただの人だからこそすごいのだということ。

 

 

 君が全力を出して何かをしたとき、本当に何か動き出すんだよといいたい。でも勇気がたりなくて強さが足りなくて、折れそうで崩れそうになったら、そうそれを癒すサーガ(物語)があるように君は何かを手に取ってみなよ。

 

君を支えるためのメッセージを自分の下へ手繰り寄せて、そう好奇心とどうしてもそれが欲しいという背徳感に似た気持ちの向うに安らぎを求めたくもなると思い。

 

最近ゲームが面白くない件 ファイナルファンタジー零式編

 

 

 最近、シリーズ初のアクションであるファイナルファンタジー零式にハマッてます。

HD版も出たということで時期的にもよろしいのではないでしょうか?

 

 本作、もうこれがかなり難しい。わたし、これの序盤でもう詰んでます。

だいたい私のゲームの腕はアクションゲームが好きなのに上手い下手で言えば超下手

(笑)。デビルメイクライでは芸のないスティンガーという技の連続というあきれた戦

法でなんとかクリア。のちのちの4のネロ版スティンガーにはお世話になりました。

 

 あ、ちなみにDMCは(DMCデビルメイクライの略。間違ってもデトロイトメタ

ルシティの略ではない)

 

 4までクリア。私的に5はダンテさんじゃないただの角刈りスポーツ少年だ!アメリ

ネバダ州の田舎者がダンテさんにたいしてイケてねえ発言は禁句。本家を殺す勢いを

君は醸し出せたか?いや、俺の中では無理ゲーだ。

 

おまえはもう詰んでいる。そしてこれからのDMCにおまえは必要ない。

 

 必要なのはダンテなんだ。おまえじゃない。そうだよダンテだ!ダンテだよ!ダンテ

さんじゃなきゃダメなんだ。魔王の猛攻に臆することもなく魔王すらがその速さに

「消えた・・・だ・・・と?」と思わせておいて横から「チェックメイトだ・・・」と

愛銃エボニーが火を噴く、そしてそのまま

「さあ、地獄の観光としゃれこもうか・・・」と奪ったバイクで地獄までまっしぐら。

 何やらせてもかっこよくて一流、それがダンテクオリティ!

 

 

 

 

 

 

  ・・・・・個人的にはリベリオンのデザイン変えてほしいけど。ゼルダの伝説なのに

トキオカのリンクさんのようにダンテさんはダンテさんじゃなきゃだめなんだS!

 

 コホン、あー、かなり脱線してしまったようだけど本筋にもどって零式なのだけど。

だが今回のこのゲームなんやかんやで、つかみづらいし入りにくい。まず世界設定が今

まで見たことない設定で本物の戦争をファンタジーにしたみたいな。なんか序盤からば

たばた人死にすぎだ。それどころか、話の内容だと魔法学校はあるのに実際は幾人かの

候補生の活躍だ。

間違っても、ホグワーツへハグリットが迎えにくることはない。秀才以外はいらないようだ。

つまり俺のような馬鹿じゃ、ドロップアウトってことさ。へへらへら。

 

 それなのに、なぜ、頭の軽そうな暴力少年がクラサメ隊長に裏拳で吹き飛ばされにゃ

ならないんだ?あれはあれでいいじゃんか、きっとクラサメ隊長の幼少期からの積年の

恨みがあるに違いないんだ。クラサメよ、そなたは強いがその剣には心の暗さが残るの

じゃ(誰?・・・・・・)

 でも考えてみるとあの候補生が手も足もでない、なんかスカッとしましたよ。やって

くれたね

 エリート思考で育てられた畑のぼんぼんにいくさとはなんぞやっと明確にくっきりは

っきり現実を突きつけている。惚れたねクラサメ先生。ダンテマーク申請!

しかしまだ序盤でわたしはこれほど手痛いダメージを負ってしまった。(序盤で詰んだ件)

 HDの方はどうなんだろうか?画質だけはいいなとは思ったが。良くも悪くもFFシ

リーズ、もうあのⅠとかⅡとかの表記つまりローマ数字やめるべきじゃないか?だがF

F15とか16とかもう無理だ。なんか限界なんじゃないかと思うFFシリーズ。もは

やレジェンドオブFFフィフテーンとかFF列伝15巻とかFFサーガ 新約FF と

かもう改造チューンナップ必要じゃないか?スクエアが作ってころとは違う。ドラクエ

はまだまだいい線、いってるけど、どうなんだろFF15、まあ、そんな終わりのない二

大タイトルの話をするとホントに終わりがないファイナルファンタジーなのになあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  というわけで零式に話はもどります(いままで脱線しすぎだろ)、まあ、これレベル

低くてもキルサイトを使いこなせば勝てるのよ、これがすごい。純粋なアクションゲー

中毒者だったら余裕というわけだ。やったねイエ―!だけどこういうアクション物は広

く浅くが一番いいんだ。

 そこが矛盾しているとは思えないだろうか。なに?作者のアクションゲーの下手さを

棚に上げてる?じゃあ、いったいだれが20レべまであげたエースが最後一人になって

も第三章をクリアできないと予想できたよ?もう戦いは朱雀の敗北で決まりなんだよ、

首都だけ残ってそこから巻き返しなんて戦争戦略的にありえないんだよ。諸葛亮孔明

も呼んで来いよ、ルシつかえよ、まだ序盤で意味わかんないけどさあ。

けどアクションゲームとしては出来はいい。さすが一時有名になっただけのことはある。

 

 で今はというと大三章に入るまで主要キャラ全員20レベに上げる。これでだめなら

切腹しましょう(ゲームなのに大げさだなあ)。

もしくは敵に投降して逆に朱雀を攻略だ。

 

 戦力を集中して個人の技能だけで勝ってる国なんて持たないだろう、アドルフのあの最強の噂名高いどこかのだれかさんみたいに。

 

 

 

 

 どう生きるかを決めることはできる、だが自由になんでも楽に決められるわけじゃな

い。苦しいけど前に進むそれが何かにつながるんだ。

 

 

しかしなぜ候補生はクリスタルなくても魔法打てるの?だからファントマが関係しているのだろう。

だけど、こうゆう伏線の張り方は必ず悲劇がまっているものだ。

なに、あのファントマ?あれってたぶん人の魂なわけだろう?どれだけえげつないんだよ、今作。

 

 

 でもこのゲームはっきり言っておくけど、よく練られたいい味わいを出している。

やりこむごとにはまっていくだろう。個人的に使えるキャラはキング、マキナ、エースだ z。

 

 だがまあ、使えるキャラと使いたいキャラって違うんだよ!俺のような超凡人にジャック(刀のやつ)

 つかえってのは無理なんだ。というか使ってみてがっかりだよ。神のいたずらか悪魔

の罠かっていったら悪魔の罠だよー!だいたい登場人物全部使ってみなきゃわからんだ

ろうが!

 

まあ、まだ序盤なので今回はここまで。

 

 個人的にVITAは買い時だけど高いなーまだまだ。大体、一機の単価の高いゲーム

機ばかり作るから破局するんだよ。もうちょっとなんとかならんのかスーパーファミコ

ンみたいなグラフィックでも面白いものは面白い。スーファミも当時高かったけどな

 

 

 

そろそろお金というものに本気で考えてもいいと思った

 

 

そろそろ本気でお金のことを考えてもいいと思った。

 

 

 

 

 

 私はもう若くはない。ということ最近をよく考えるようになった。ゲームをしたりア

ニメを見たり映画をみたり楽しいし自分自身、いろんなものに首を突っ込むのが好きで

いろいろやってる。

 

 だがそうだ、もう若くはないのだと思い始めた。というよりその焦りが足元までじわ

じわ来ている。

 

 お金を稼ぐというとなぜかみんな会社に通うということをイメージすると思う。なん

でか、会社というのは雇用形態

がきっちりとしていて長期的に収入が見込めるからである。

 

 バイトと違って収入が安定している。だけどどうなのか?収入を求める時、労働だけ

がお金を稼ぐ方法なのか、

 まあ、基本的にはそうなのだけれども、だがそのために今自分に会社で働くほどのス

キルがあるのか疑問でだいたいそうしてその会社に入りたいのか、もっともな話。あな

たは将来どうしたいのかということが結局はどんな会社でどんなことをやるのかにつな

がるという月並みだがとても現実的な話になるわけだ。

 

つまり君は何になりたくて生きてるのということを会社からも言われるわけだ。

 

 ブラック企業とか就職難とかそもそも二十歳前後の学生がいったい自分の人生で何が

やりたいのかなどと問い詰められるわけである。

 

分かるわけないじゃん(笑)

 

 ぶっちゃけた話、なんかその時非常に興味があったことを志望動機の欄に書き込むく

らいがせいぜいだと思う。

 

 こんなこと言ってて大丈夫か的な話なんだけど、つまりこれを後回しにすると将来と

ても困ることになる。

 だって将来なりたいものがないのにどこかの企業に就職、仕事の出来不出来で採点さ

れ、出来ないものは淘汰されていく。

 

 お金を稼ぐのと夢は別と考えるのもいけすかない。逆に夢があってそれに一番近い仕

事をして経験を積むから次のステージがあるんじゃないか?

 

 だとしたら大学を決めるところでもう自分の将来を完全に見据えてないといけない。

そんなことが今時ふつうの高校生に突き付けられている問題である。

 

 私はこの問題に中三の時に答えを出した。物語を作る。これが私の夢でありこれに付

随した何かなのだ。

 物語を作るといってもライトノベルのようなものを作りたいわけではない。将来、子

供やいろんな人に影響を与えるようなものが作りたい。そうすると必然この世の中の絶

対的な真理はなにか?とか、それから歴史や宗教、そして社会問題、人間というものに

ついて、私の人間関係、いろんなものに興味を持つようになる。そしていままでいろん

なことを考えてきた。それでも足りないのである。自身の中にあるものだけで何をどう

してもどこかで進まなくなるもので他者の介入が必要になってくる。

 

 

 

 

 

 だが人間馬鹿正直に生きるのはとても難しいことでだったら誰かによんでもらえばい

いとか思うだろうが分かってもらえるだろうか、人生とは勇気の連続で本当にそれに耐

えるくらいの心が自分にない時人は逃避してしまいたくなる。

 

 そしてその逃避こそが結局は強力なイマジネーションを呼んで自分自身がやるべきだ

と思うことから逃げたくなる思いが強ければ強いほど人間というのは賢くなると思うの

だ。

 

 お金についてもそうである。まじめに働いて稼ぐということに全身で否定したい気持

ちがつよいほど他のことに熱中する自分がいるのではないか?

 

その逃避を良い意味でとらえると情熱という言葉になる。

 

 私が思うのは人から良く言われることの逆をやることを責めなくていいということで

ある。人というのはいろんなことを強制してくる。一番やっかいな無理解者は他ならな

い大人で、それも親だったりするわけで、親がどれほど美辞麗句をならべて自分の将来

にたいしての説教をされたところで半日もたたずに忘れるだろうということだ。

 なのに親というものは自分が子供だった時の事をホントにまるっきり視点が入れ替わ

っただけでおなじだということがわかってない。だから自分が失敗したことをあるいは

自分ができなかったことを子供にさせよう、させまいとする。

 

 まことに愚かな生き物なのだ。それは歳が過ぎるごとに分かってくる。親もまた子供

なのだ。完全な大人というものは他人になにかを求めず、たえず自分が何がやりたいか

で動くものである。というのは行き過ぎの感があるのでまあ、子供に対しても人に理解

できる言葉で話すというものだという感じだろうか?

 何かを説明するとき、人に理解される言葉で話すのは実に頭を使う。実は理解という

のはそれほど重要じゃなくて単にその時は共感が欲しかっただけということもある。

 

 そんなことを考えて改めてお金というものを考えると、そうだな、人間関係で楽しく

生きれる人はなんにでも上手く生きていける、そんな単純な答えが一番だと思う。人と

楽しく過ごし友を得て恋人を得てそして気づけば結婚していて、子供までいてその子供

がまた子供を産んでそうしたらもう一人であーだこーだと考えていたことなどなんとち

っぽけなことだと気づくだろう。

もし、子供がいればその子供に困ったときは助けをもらえるかもしれない。

 

 この世の中、助け助けられで動いているとそう思うことのできる人生にはお金の心配

というのはあまり重要ではない。それよりも自身が何をやりたいかを明確にすることの

できる人生が優先される人生が上の人生なのではないか?

 

 わたしの物語には友情という言葉も恋という言葉もだしたいし結婚という言葉もいれ

たいし、最後の結びはそれからみんなでいつまでも幸せに暮らしましたとさ、で終わる

ようにしたい。人間、人生一回きりである、だからしてそう思うのである。

 

 

 

最近ゲームが面白くない件

もう、最近ゲームなんてただの暇つぶしにしかやってない。考え事をしているとき、もう疲れた。ああ、そうだゲームでぼうっとしようそんな心境。

 

でもそうやってデビルメイクライ4のブラッディパレスでダンテさんに華麗なる舞をニコ動の先生方を見てやったり、

PS2のグランツーリスモでイニシャルDに近づこうとあがいていたり。でもアーケードモードしかやらないし。

 

COD:MW3はそういう意味では神ゲースペシャルオプスがサバイバルがすんごい面白い、手間がかかるけどカオスモードはやってみたいがやはりめんどくさい。ゲームだけのゲームっていまでも生きてる。昔はロックマンなんか結構やったものだ。ボンバーマンも。

 

だいたいFPSってなんであんなスナイパー多いの?サブマシンガンは使っちゃダメなんでしょうか?

スナイパーが構えながらこっちにやってくる光景って結構恐怖なんですが、まあオンライン全然やんないんで別にいいんですけど。

 

つまり今俺がやってるのはゲームを売って資金にするのをやめて、ゲームソフトのライブラリを増やしているって感じだ。たまにやりたくなるゲームをピックアップしている。

 

ゲームセンター行くことも増えた。レースゲームとか面白い。ていうかゲームの歴史的にアーケードゲームがソフトの基本を作っているって思う。

 

なんだかんだ言ってゲームは友達とやっているのが楽しかったのかもしれない。

 

 

オンラインはソロでゲームだけ楽しみたい。なぜ、面白いのに他人の視線を気にしてそれもサークルに入れてきなフラップがとんで、俺は引きこもりゲーマーになる気はないんだ。目を合わせると速攻就職決まっちまうようなそんな感じがして絶対に踏み込めない一線。なんでオンラインで出してるのをゲームソフト化してくんないのかなあ、クローザーズなんて結構いい線いってるし。あんな感じで日本の得意な二次元を表現してけばいいんじゃねえとか思うんだが?

 

スターオーシャン4のグラフィックは西洋じゃ真似できないだろと思うけどゲーム性がしんどい。

 

ユーザーに優しくないゲームなんて拷問器具だ。チュートリアルはやるならやるでわくわく感をのこしつつやってほしい。ゲームシステムがソフトごとに違うから、それで結構躊躇する。分かりだすとけっこうなシンクロ率になるんだが。

 

マスエフェクト3は、分岐点が多すぎて目が回る。ユーザーにあんま決断迫るなよ。そこまで冒険する気はないんだ。

 

もし、ゲームの世界に入れるようなゲーム機ができたら、もうそれはゲームじゃない。そんなら本当に体を動かせるゲームの世界にしてくれ。そうじゃないとやりこみすぎれば下手すりゃ死ぬ。だって本体(自分の体)は全然動かしてないんだから。動かない体っていうのはどんなにリラックスしてても危ないんだって。マジで立てなくなる、

病院で二週間も寝たままだった時があってそんときはかなりやせたし。起きて歩くことすらできん。それどころか体動かそうとすると痛い。

 

ゲームのシステムがボッチを作ってはいけない。二人協力プレイが流行ったころ、必ず誰かがボッチになった。

そして二人が協力してプレイしてるところただ観戦するという異常なゲームプレイ否放置プレイが出来上がった。

Mな人じゃない限りあの空気感は楽しめねえ。

 

もう、海外っていっても銃の世界だろう?基本、銃をメインに戦いくんでるから、純粋な剣術ができるゲームがない。だからそれを日本刀が作れる日本がやるべきだろうと思うんだが、某ラノベは別として。

 

軍隊にあるのは徹底したリアリズムさ。Byマスターキートン

 

だからかなあ、ゲームとしてFPSがなりたつのは?

 

日本刀のリアルなんて想像できないのかなあ、一遍わら束を日本刀で切ってみるといいんじゃないかな。

唐竹割りってできたら最強だぞ?

剣道よりは剣術を見習ってほしいな。もっとかっこいいから。黒田鉄山の動画なんてしびれるんだけどな。

そんなわけで剣だけの世界のアクションRPGがやりたい。魔法はダメ、銃もダメ。武器はいい。この線引きが

難しい。

天才は常人には理解されない?それはどうかな?

 ペン回しができない人、できる人。逆上がりができる人できない人。とてつもなく運動神経が鈍い人、音痴な人

またはコミュニケーションが取れない人。

これらは才能とか生まれ持っての資質とかそういうふうに判断してしまいがちなのが人間ですが、まず運動神経ですがこれは必ず良くなります。

では何を運動神経と言うのでしょうか。ここでは単純に運動することが上達するのが早い人としましょう。

たしかに生まれつきの才能がかかわる部分もあるでしょう。ですが運動というのは自分自身の体がどう動いていてまたどう動かすかが一番最適なのかを知ることから始まると思います。中学の時わたしはテニス部にはいりました。ですが半年もたたないでやめました。というのは確かに今のうちに運動しておけば体力はつくだろうし精神状態もかなりよくなり、根性などもつくだろうと思いました。ですが私はいつも考えすぎて動かないたちだったのでしなくなりました。それはテニス部の部長があまりに低いスポーツ理論しか持っておらず。運動部特有の精神論を展開するような感じだったからです。それにテニスの性質上右利きなら右に筋肉がよってしまい不整合な体になってしまうんじゃないかと思ったからです。それにスポーツという運動そのものに故障や事故が多いことに少し抵抗がありました。ま、四の五の言わずにやりゃあよかったんですが、私は中学卒業後高校入学までの間、自身で武道の理論を勉強していました。道場にもいったりして棒術なるものをするようになりました。そこで古武術というものに出会うのですが、当時、スラムダンクで有名な井上雄介さんの「バガボンド」が連載されてそれにいたく感銘を受けました。武蔵の極限での体の運用がもっともすぐれた運動理論ではないかとおもったのです。

 

そこで高岡英夫、甲野善紀などの身体論を知り実践しました。そして武術の世界にはまり。自身が以前から背中の中央部にある背骨のゆがみを治すために整体の技術も学びました。そして人というのは時間はかかれど運動において不可能な事はさらに高度な身体技能以外にはなく、運動神経というものは生活リズムがちゃんとしていていつも体の力がぬけリラックスした状態で一種のハイな精神状態に自分をすることによる超感覚的なものだとわかりました。彼らはたまたまそういう生活をしてきたから運動神経がよいのであって適切な方法をとれば運動神経は経験することができるのだと分かったのです。それからはひたすら修練の日々なわけですが、やったことというのはとにかく歩くこと、歩くことを細かく細分化して自分でそのすべての動作をコントロールできるようになる。つまりどれくらい歩こうとも疲労しない体。疲れ知らずな体を目指しました。どのくらい歩いたか。自分でもわからないのですがあるころから知能までもが上がっていくのがわかりました。そしてその思考状態で考えたのが自身をどこまで高められるのか、知能や音痴も結局はある問題を克服することによってできるものだということ。そしてそれをしるのに必要な情報は図書館と自分の体に聞けばいいというような感覚に至ったのです。

 

音痴な人がまず、自分をダメだとしてしまうのが学校で歌を歌うというストレスです。ストレスというのは精神的活動の敵です。ストレスが発生すると体は委縮しリラックスできなくなりそしていつも体に力が入った状態になります、

それは体にとってものすごい負担になります。私が音痴いわゆる歌が歌えない状態から立ち直ったのは昔から口笛でゲーム音楽を口ずさむようになり気心の知れた親友とカラオケにいくようになったころでした。初めはその親友も音痴で歌うのが下手でした。だけども私との仲でそんなことを恥ずかしがる必要もなくカラオケ屋という密」室で自分たちがよく聞いていた、アニメソングなんかを歌いあったりしたのです。そうしているとだんだんと歌は上手くなっていきました。結局リラックスした体で自分の声が聞こえる状態で好きな曲を歌うという単純なことが音痴を脱するヒントになったのです。今では洋楽も邦楽も歌えます。

それでたいていの人はまだ発達段階か準備段階でそれに到達していないからできないのだという風に考え始めました。読書もスポーツも運動神経も自分が経験していくことによってだんだん理解していき、ある時それがあふれてレベルに達するとそういう考え方はとても合理的だとわかったのです。

そして物事を熟練させるためにはとにかく楽しむことだとわかりました。コミュニケーション能力がある人は自分が楽しいから、それか自分がそのコミュニティに溶け込めて社会的な地位を獲得できているからだと思うようになりました。だれでも最初はできないのです。それをやれるようにするには最初の一歩をあまり意識することなく初めてしまうことなのです。

よく一つのことがうまくいくとすべてのことがうまく生き始めるというのはたんに運勢的な話ではなくて一つのことがうまくいくとその方法論で万事を解決する糸口がつかめだしすべてのことにうまくなるコツのようなものをつかめるからなのです。

そして教育というのはつまりは人生をいかに楽しむかを教えるためのもので、楽しい人生では仕事は苦ではないし、無理をして会社にいくということをなぜしなければいけないのか、なぜ、この世には義務があってそれを果たさなければならないかという問題にも正当に答えられる力が身につくのです。

わたしが考える力というものに目をつけたのは中学の道徳の教科書で得た知識です。つまり、自分の頭で自分で考えられるようになって初めて一人前、それまでは準備期間で、青年という少年でも大人でない期間にあるという話です。ですがわたしはそれが面白いと思いました。

ソクラテスという人の弁明をネットで読んだとき感銘を受けました。彼はそのころ、万物を定義されつくしもはやこの世には一遍の不可解もないとしてその常識のようなものを学ぶのが若者のつとめだと話してまわる弁論家に対して、自分はなんにも分からないだから教えてほしいと、提言してそれで彼らが振るう学説をいちいち論議してついには彼らはなにもしらず万物は定義されてはいない。という真実を表すように彼らに提示し彼らの論理を論破しつづけたのです。

そして「私は知らないということを知っている」という名言を残しなんの著作も残さず時の王の命令で殺されてしまいます。ですが彼を支持した何十人という弟子が対話篇などの彼の言った言葉を後世に残したのです。

その中に「ソクラテスの弁明」というその時の裁判の話が載っていてそれをネットで読んだわけです。

そして哲学に興味を抱きます。ですがわたしは難しい哲学の本は嫌いでした。高校で教わる倫理の授業がまたわたしをいろんなところへ連れてってくれたのです。

 

そうです、本来、学び、運動し、考える、ことは楽しいはずなのに今の学校は羞恥心(他人の前で自分が侵すことが恥ずかしいと感じること)をあからさまに行います。生徒もその心につけこんで自分より弱い人間を苛めようとします。

現代教育はまさに自分の羞恥心との闘いのようになってしまっています。ですがそれでよいのでしょうか、ストレスを克服することで初めて人間は成長する。それもまた事実ですが、その精神論だとこの世はまさに勇気の連続でしかありません。いったんふるった勇気をさらにこえる勇気で克服しなければいけないそんな世界はもはや絶望的ですらあります。どこまでが少年少女でどこまでが青年なのか私は少年少女たちにはまだ言いつけてちゃんとできるようにする方法は悪ではないと思います。どんなに理路整然と物事を諭してもある時点にくるまでは子供たちは理屈抜きでめんどくさいとしか感じません。しかし彼らのうちにやっておかなければならないことはいっぱいあります。

 

その中に家事というものがあります。現代教育ではこれに触れません。ですが考えてみれば家事というものが少しでもわかっていれば汚いものをこぼしてしまったときはこぼしてしまった人が片づけなければならない。

だれしもがおねしょやうんちを漏らし、それの処理をお母さんやお父さんは嫌な顔せずしてくれる。ということにも気づきます。だから小学校のトイレに入ることが恥ずかしいことではないとみんなわかるんじゃないだろうかとも思います。ですが子供の心はえてしてそれがどんなに恥ずかしいことでもいたずらにやってしまうというところがあります。ですがそれが人として最も恥ずかしいことだとわかるのはその子供が青年か大人になったころです。

 

ですから教育というのは青年か大人になったころどのように子供たちが成長しているかで決まるんだと思います。

またいかにして知識を獲得するのか?あるところから知識というものが大きな課題になるでしょう。

ですがそれに一番良い方法は読書をすることです。しかし読解力という意味不明な言葉を聞きます。小学校低学年の子供に読解力なんて言葉はつかわなくていいのです。まだあいうえおや漢字に苦戦して先生に教わる字をお手本に習字を行い読み聞かせをしていれば適切な日本語はかならずつきます。

文章が稚拙なのはまだ論理的思考段階に入ってないからかもしれません。直観的思考段階と二つの段階があるのですが、直感的思考段階の子供はまだ、物事を直感的にしかとらえていなく同じ容量のコップに入った水でもコップのかたちで水の量が違うと思ってしまうのです。

それは子供の発達段階の話なのですから無理に進学塾に入れる必要はなく、待つこと、子供の成長を待つことが必要です。

そして子供の成長で一番必要なことは両親がちゃんと子供の面倒をみることです。家にいないで子供をほったらかしにしていては子供に孤独感を与えるだけです。家庭で一番大切なことは子供を理解することだと思います。

私は正直に言うと子供というのが怖くて仕方がありません。なぜならどんなリアクションをするかわからないからです。赤ん坊になるとさらに怖いです。抱いた手が緩んで落ちて頭を打ったらどうしようと考えてしまうのです。

でもうちの母は、子供が好きで子供がいると子供と同じになって「どうしたんでちゅかー?眠たいのかなー?なんて感じで子供をあやします。ですがこのなんか子供みたいな子供をあやす言葉は子供にとってはいごこちがよくて母がだくと子供がなきやんだりします。母親というものは子供と真剣に付き合っていくと子供の心がわかるようになるようです。私は教育というのは子供の心がわかって初めて成り立つと思います。だから私はまだ教育者にはなれないですね。なっても偉い校長先生のようになってしまうのがオチで生徒とろくに話もできなくなりそうです。

中学生相手なんてちょろいとか生徒をバカにしてると足元救われます。

ちょうど中学生なんてスポンジみたいにいろんなことを吸収する時期ですからその時の成長はものすごいものです、三年間で教育の仕方ではまるで違うと思います。

 

 

さて私がわからないのが試験という奴です。もっと分からないのが受験という奴です。なぜでしょうか中学、高校をただたんに高等な教育を受けるために一枚の紙きれでその人物を試せると思っているのでしょうか?または人を試せるほど自分は高等なのでしょうか?そして受験のためだけの勉強に何の意味があるのでしょうか?

ここだけは本当に愚かな行いとしか思えません。学校を運営していくなかで必ず問題は起きます。ですが教育の現場で排除の理論を使うのは絶対にしてはいけないことです。問題があるからといって排除をするのは問題を問題のまま解決せずに放置しておくのと一緒です。そういうシステムで国が運営されると国というものが徐々に崩壊していくというのをどこかで聞いたことがあります。

つまり受験で質の悪い生徒をふるいにかけてるとしか思えないのです。どうして生徒を点数で表してその合否で彼らの進路を決めるのか行きたい教育機関には行けるようにすればいい。ただしそこで泣くことになるかは生徒次第。私は体罰がなくなったというのもおかしな話だと思います。体罰がない世界でどうやって子供をしかるんです?口だけの先生なんて誰が相手にするんです?そんな先生にできることはただものすごい怖い形相で怒鳴りつけるくらいでしょう。気の強い生徒は反抗するでしょう。どんな理由であってもダメなものはダメと教えなければこの世に冒してよい悪があるといっているようなものです。それどころか、最近は道徳の授業すら軽んじられてる。

中学生が殺人を犯して中学生に善悪の区別がつかない?なんてそんな理屈は通用しない?道徳というものは善悪というものは頭が擦り切れるほど考えてやっと答えがでるようなものです。イエスキリストでもブッダでもその問題に一生をかけたんです。その答えを経験則だけで知った気になるなんておこがましいにもほどがある!

なら、今現在の教育機関が目指す最良の人間とはなんですか?それを生徒に説明して納得させられますか?

考えても考えてもわからないことだらけではないですか?いくら討論してもだめではないのですか?だから今教育について叫ばれてるのでは?人の言うことをはいはいと聞いてその通りにやってきただけの人間にこの国の将来はまかせられない?違いますか?進路希望なんて紙切れ一つで人の夢の重さが図れますか?進路なんて自分の将来なんて善悪なんて考えたこともない生徒がやまほどいるんじゃないですか?

ここまで私が学びそしてこの国のために考えていることを書きました。

この国だけではない、いま資本主義が社会体制の国の多いこの中で多様性(人とは違うこと、個々が個々違うということ、それら様々な違いが世にあることの世の中の摂理)がどのようにはぐくまれるべきか。それが人間が本来もっている問題そのものと向き合うほかにないのだと思います。

なぜ政治が乱れるのか?リーダーや王様が時が経つにつれてその役割を勘違いするか忘れてしまうことで起こる。そしてえてしてリーダーや王様というものはだれにも理解されない孤独なものだということ。だから民主主義で代表をたてようとするとはじめのうちは皆から支持されて自分には国を治めるだけの力があると思えるしかしいったんその代表になってしまうと周囲は四面楚歌。自分が出した答えに反論するものが必ず現れ、理性と知性と労力のすべてを試される。

いかな王朝もどんな国も長くつづかないのはそういう本質があるからだ。

国というものが維持されるのはなんのためかそれは国民のためと原始時代から決まっている。

だがそれから一万年今その原始の問題に今も挑戦しつづけなければいけないのが人間なのではないだろうか?つまり古いということは問題に一番近いということである。ではこの国で一番古いものはなんだろうか、それは人間である。この国は日本という国は開国以来この国の土となっていった人々の上にたっているのだ。

卑弥呼の時代から地層を見ればわかる人骨がでてくるし、いろんな出土品がでる。歴史番組がなぜ、この国の将来を憂えているような色調になるのか、それは歴史とは人間の積み重なった生きた記録だからだ。

ではなぜ日本のご年配の方を弱者のように扱い、その人たちの意見を聞かないのか。彼らはいいます。戦争はしてはいけない。それはわたしたちが体験したからわかるんだとも。そしてそれがどれほど筆舌に尽くしがたい感情であるかも話せばわかります。

世界規模の戦争が起これば地獄絵図です。死体の山から自分のお母さんや妹を探す羽目になる。ナチスドイツがした悲劇、でもその同盟国だったのはほかならぬ日本なんですよ。そして日本人だって戦争をしたんです。

子供に善悪を教えなければいけないのはそこがあるからでしょう?今、人生には生きる価値のある大切なものがあると世界が共有しないで何の平和がありますか?

人が生きる価値を失ったとき、世は、乱れます。第一次大戦大恐慌や農村の世界的な不作が原因だったともいえます。いままた環太平洋のプレートが活発化してあちこちで火山が噴火しています。火山の噴火がもたらすのはあついチリの雲です。それは太陽が顔を見せない全くの闇を生み出します。それが結果として農村の不作につながる。古代の人たちが天体の動きを読んで吉兆を判断したのもそういうことだと思います。単純に世界がチリに埋もれて闇がくるということがどういうことかを知っていたということです。今なにをしなければならないのか?これこそがこの世界に住んでいる人間すべてが考えなければならない義務でしょう。

最近のPCにいろいろムカついてる件

最近ストレスがとても増えた。新しくPCを買ったのだが先代のデータの引継ぎにてこづっている。

2000曲以上の音楽データがあーでもないこーでもないとしていたらいつの間にかいろいろ消えている。

Apple社は3000円でテクニカルサポートをするというがその3000円を払うのにも時間がかかりそうだ。

とにかく時間がかかる。microsoftwindowsも全部、とにかく時間がかかる。データのローディング、GBというスペックそのほかすべてが複雑で高度になってしまってもう手が付けられない。

もう、すべての既製品を打ち捨てて全く新しいOSを作って欲しい。とにかく時間のかからないこと軽いことそしてシンプルでタフであること。

アカウント登録が何十個もあるともはやそれだけで混乱する。もういいよ、新しいことするたびに無料登録するのは、私は登録をしたいんじゃなくて音楽や映像や文書作成そういった精神活動をしたいんだ。

それなのにさっきいれたはずのパスワードがサインインの時にはじかれ、何時間も費やしてやっとだ。アナログの方がまだシンプルでいい。デジタルとは大量の情報を快適な速度でユーザに提供もしくは利用してもらうためにあるはず。タブレットは大失敗で完全に方向性を間違えた。無料のアプリなど暇つぶしにしかならない。

そうではなくてちゃんとした文書作成、ペインティング、そういう創造的な活動を支援してくれるのが本来の役目なはずだ。そしてアナログなら文書に暗号をいれたり、図をいれたりもっと言えば紙の上ではどんなことも可能。

アナログを捨てきれないのはデジタルがまだまだ不便で信用がないからである。

それどことかPCでアニメやゲーム、映画にテレビ、マンガ、いわゆる娯楽までてんこ盛りにしていることだ。

そもそもインターネットの新しいブラウザは便利で機能的でタフでそんなブラウザがみんな欲しいのである。

グーグルクロームはそう言う意味で成功している。だがwindowsmacもはや超巨大企業。我々ユーザーがここが不便だとかそういうような抗議に割く時間がないほど忙しいのに不具合のあるまたは複雑怪奇でわけのわからない、使いにくいそういったPCを作り続けて、それをしょうがないんです、とか仕様ですとか言い。PCはスキルのある人間にしか恩恵を与えないというのは確かに一般論で正論であるだけどそれではライトユーザーはいつまでたっても設定の仕方に時間を費やすしかないじゃないか。

パソコンにゲームソフトを入れた結果オンラインゲーマーの悲劇を生んだのだ。とにかくPCは莫大な時間を浪費する。

一方では、たしかにPC上級者はアナログの三倍は仕事の能率は高いがそれは少しもPCを作っている会社がすごいというわけではない気がする。

今回のデータ移行で私は2000曲以上の曲の大半を失った。音楽をきくことがしたいのになぜ、音楽のデータの管理をしなければいけないのか、はなはだ疑問である。